入賞作品
第3回(2019年)の入賞作品
グランプリ 最優秀作品賞
「Yちゃん、クラスの子と比べると遅れちゅう気がするき、一度病院行ったらどうやろ」。保育園に迎えに行くなり、日頃から信頼している担任の保育士に、こう言われた。「ええ、そうなが。先生がそう言うがやったら、明日早速、連れて行くわ」。必死で冷静を装い、こう応えた私だが、胸中はショックで激しく動揺し、立っているのがやっとだった。
次の日、市内でも評判の小児科病院に娘を連れて行った。受付をすませ、待合室に座った途端、娘が持参していたカバンから一冊の絵本を取り出すと、読み始めたのだ。「あんた、その本、持って来ちょったがかえ」。私が思わずこう言うと、娘は笑ってこう応えた。「うん。病院いっつも待たないかんろう。けんど、本読みよったら退屈せんきね」と――。
元々体が弱く、度々病院へ通っていた娘…。無邪気に笑っているのが、よけい辛く、私はなんでもない振りをし、「そりゃそうや。あんた、本当にその本好きやね。まあ読みよりや」と、笑って応えた。
問診の他、脳波まで撮った診断の結果、医師は笑顔で「Yちゃん、頭にも全く異常なしです。むしろ賢い。私から保母さんにそう伝えましょう」と言ってくれた――。私が医師からそれを聞いている間も、娘は本に熱中していたようで、嬉しさで涙が出そうだった私が、「さあ、帰るぞね」と言う声に、慌てて追って来た。
あれから早三十年余り――。当時、確か年少さんだった娘は、三年前に結婚、家を出た。
実は遠いあの日、家に帰るなり、「本、病院に忘れてきた」と言いだした娘。私が「すぐ取りに行くぞね」と言うと、娘はいつもの笑顔で、こう応えたのだ。「ううん、本、病院に置いちょく。ドキドキして待ちゆう時、あの本読んだら気分がホッとするき、皆に読んでもらおう」と――。私は隠れて、なぜか号泣した。
その本『ふしぎなおきゃく』は、今もあの病院にあるのだろうか……。時折、ふと思う。
館長賞 さっちゃん賞
僕は長男で、次男と三男の間に妹が1人いる。妹は3歳の頃、肺炎を患い入院したが、退院の前夜には、すっかり元気になり病室を走り回っていた。退院の日、学校からの帰り道、伯父が慌てて僕を迎えに来て、その場で妹が意識不明だと言った。
急いで伯父の家に行くとお袋から電話があり妹が死んだと聞かされた。だが、その直後AEDを行い心臓が動きだし、別の病院へ救急搬送され何とか一命を取り留めたものの心肺機能の低下で呼吸が難しく、喉へ気管切開をする緊急手術が行われた。その夜、病院に泊まった僕と弟は翌朝妹に面会した。妹の鼻には管が通り喉には穴が開き医療器具が取り付けられていた。「喉に穴ば開けたけん、もう声は出せんとよ。」お袋は僕と弟に言った。
もうあの日から27年。妹は30歳になり故郷にある障害者の療養施設にいる。
僕らが最後に聞いた妹の声は退院前夜の病室で無邪気に笑う声だった。お袋がある時僕に聞いた。「今、もし声が出せたら何て言うとやろね?」
僕の娘が3歳になった時、お袋から古くなった絵本をもらった。急に人にもらわれていった子猫を探す親猫が探し疲れ眠りにつくと夢の中で子猫から電話がかかってくる物語。僕も弟も妹も幼い頃に読んでもらった絵本を、色褪せてもお袋はなぜかずっと持っていた。物語の親猫がお袋に思え、胸が熱くなる。
テゥルルテゥルルもしもしおかあさん。本当はあの日からずっと苦しかった?
退院当日、妹に付き添っていたお袋が少し眠った隙に妹が急変した。だからずっと自分を責めてきたんだよね?妹の声は聞こえないけれど、声を失った訳じゃない。妹がどこかに隠したんだ。その声を見つけた時、妹はきっとこう言うよ。“もしもしおかあさん私を生んでくれてありがとう”ってね。
雨の日も晴れの日もいつも同じ空の下で妹は懸命に生きる。その事実とその姿で、あれからの僕らがどれだけ救われたと思いますか?“もしもしおかあさん、この命をありがとう”
笑顔賞
「ねえ、あたしたち、付き合おうよ!」
そう言われたとき、嬉しさはあったが、それ以上に困惑があった。当時の私は派遣社員で、数ヶ月ごとに工場を転々としていた。恋人ができるのは嬉しいが、派遣の仕事を転々とする綱渡りのような生活では、迷惑をかけるだけかもしれない。そう思って、
「俺、派遣社員で、工場を転々としている身だから、キミが不幸になるだけだと思う」
と正直に言ってお断りした。
一週間後、彼女から電話があった。渡したいものがあるという。喫茶店で会うと、彼女は一冊の絵本を渡してきた。
「ぐるんぱのようちえん」
ほっぺの赤い、象が表紙に描かれている。
「今、読んでみて」
そう言われたので、その場で読んだ。
象のぐるんぱは、一生懸命働いているものの、どこの職場もつとまらず、クビになってしまう。だが捨てる神があれば拾う神がある。子だくさんのお母さんに頼まれて、幼稚園を開き、大成功する。
読み終えると、彼女が言った。
「象のぐるんぱは、職を転々としているけれど、どこの職場でも決して手を抜かなかった。結果としてクビにはなっているけど、自分なりに一生懸命やっている。その姿勢さえあれば、いずれは自分にあった場所が見つかると思うの」
そして、彼女は続けた。
「あたしは、あなたが一生懸命、自分なりに頑張っていることを知っている。ぐるんぱもあなたも同じ。ちょこっとだけ不器用で遠回りしているだけ。それを信じているの。」
非正規でも頑張っていることを認めてくれる人がいて、本当に嬉しかった。
ぐるんぱのようちえんをくれた彼女は、今は私の妻になっている。
元気が湧く賞
私の次男は生まれつき両手の「合指症」です。右手は親指以外の4本がくっついていて、左手は人差し指と中指がくっついて生まれてきました。
重度の喘息の次男にとっては命がけの手術をくり返し、4才までには10本の指になりました。曲がらない指や関節の足りない指もあり、皮膚移植をした皮膚は色が違いグロテスクにも見えます。
小学1年生になってしばらくすると次男から「ママ、知らない子が手を見に来る…星野ってどこ?手見せて!って違うクラスから来るんだよ…」
手を見たお友達がクラスに戻って、また友達を連れて見に来るそう…下を向く息子の姿に涙が溢れそうになりながらも「そうか…お母さんがなにか考えるから大丈夫!」と笑って言いました。
私は小学校で読み聞かせを長年やってきていました。そこで、先生にご相談して読み聞かせの時間をお借りして「さっちゃんのまほうのて」を読ませて頂く事にしました。
次男が手術した頃の包帯だらけの笑顔の写真、指がなかった頃の写真も大きく引き伸ばして見てもらいました。
読み聞かせをしている途中、何度も泣きそうになり言葉につまりながら読みました。
泣きそうになり下を向いてしまうと隣に黙って立っていた次男が私の手を握ってくれました。読み終わると次男が「見たい子は今見に来て!」と言いました。たくさんのお友達が次男の手を見に来ました。
「ここはね、足の皮だよ。ここはね、太ももの皮だよ。」と笑顔で伝える次男。
その日以来、次男の手を見に来る子はいなくなりました。
次男の両方の股関節の所には皮膚を取った大きな傷あとがあります。
プールの着替えの時「はい、皆さん!ここの線にそって、はいコマネチコマネチ!」と笑いを取るまで明るく育ってくれました。
手を隠すことなく明るく育ってくれた次男、今の次男があるのはあの時に思い切って「さっちゃんのまほうのて」を読んだ事がきっかけだと思います。私にとって宝物の絵本です。
絆賞
妻は子を連れて帰ったが、私は席を立てなかった。診断後の待合室には走り回る子もいたけれど、私には全てが遠い映像のように思えた。これから数十年にわたるであろうわが子の苦労、そしておのれの負担。私は消えてなくなりたいと心から思った。
何時間たっただろうか。夜間照明に気がついて、私は顔をあげた。フロアにはもう誰もいない。難病を見抜いた病院だけあって、施設は充実しており、書架もある。私はぼんやりしたまま、一番手前の絵本を手に取った。
『さっちゃんのまほうのて』 田畑精一
たわいもないメルヘンかと思ったが、表紙は、少女の泣き顔である。私は意外に思って、ページをめくった。
さっちゃんの右手には指先がない。心ない言葉を受けて、彼女は初めて障害を自覚し、幼稚園に行くのをやめる。そして日々ぬいぐるみと遊ぶのだ。簡素な挿絵とやさしい文章で描かれたその姿は非常に切なく、私は胸がしめつけられるように感じた。
やがて彼女は障害を受容し、日常生活に戻ってゆく。こう書くと美談だが、他の選択肢はなかった。障害者にとって、受け容れないことは死ぬことだからだ。弟の誕生以外、環境は変わっておらず、困難も解決されていない。彼女が自分で前を向いたにすぎない。
しかし、周囲の果たした役割はあった… … 両親、先生、あきらくん… …彼らは今までの立ち位置からほんの少し移動して、さっちゃんの指先部分の場所をつくったのである。
病気の障害を治せないまでも、苦しむ人々が前を向く余地をつくることはできる。伸ばせない指があるなら、周囲が伸ばせる場所をつくればよいのだ。私の役割はある。
その夜、私は数年ぶりに泣いた。これはすばらしい絵本である。作者は人の痛みを理解している。万人に勧められる一冊だと思う。